他人の不幸を喜ぶということ

首都圏を襲った大雪。夕方あたりから帰宅許可を得た会社員で都内のターミナル駅はごった返していたようだ。当方も客先から仕事の優先度を下げて、帰宅するか否かの判断を委ねられたが、帰宅ラッシュにぶつかるのも嫌だったので、そのまま作業を進めた。夜にかけた鉄道の運転見合わせのリスクも頭にちらついたが、雑念を殺した。
おかげで帰宅時は鉄道もタイミングよく運行しており、座れたのはまさかの幸運。最寄駅から自宅まで10cm以上積もった雪上での歩行には苦労したけれど、状況を冷静に見つめれば、スムーズに帰宅できた方かなと。4年ぶりの大雪とあって、あまりこういうのに慣れていない都心のインフラだが、対応力はさすがの一言。影響を最小限に食い止めてくれた。国力は健在だ。
小室哲哉の引退で激震が走った先週。家族の介護やメディア(週刊誌)の在り方をもう一度考えるキッカケとなった。親の面倒はいつかくる日に備えつつ、それに対応できる働き方の模索は既に手をつけている。ただ人間的な機能を失った肉親を相手にするもどかしさや切なさをどのように消化すればいいのか、は実際に体験してみないことにわからないもの。不倫しようが何しようが、苦しんでいるのは本人たちで、何かあれば当事者たちで決着をつければいい。
権力者に媚びて弱い者イジメに走るメディアもメディアだが、昨今のこういった世の流れは、他人の不幸に食いつく層が一定数存在することによって成り立っていると思われる。良い思いをしている人を妬み、うまくいっていない人を見て安心するような人間は、けっこういる。おそらく彼らがそういう報道にお金を落としている。だから一部のメディアもそこにすがるようになった。
不穏だよなぁ。一般人のこういう意識や考え方って変えるのは難しそうだし。ビジネスとしてもこの層に寄り添うだけである程度の収益を得られてしまうから、近寄る人も多くなるはずだし。この流れは如何ともしがたいのかな。
来月中旬に生命保険の年間支払いの分厚い引き落としがやってくる。既にクライアントへの請求は済んでおり、未入金なしで引き落としの日を迎えられそう。それまでに突発的な出費を要するトラブルが起こらないことを祈るのみ。